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更新日:2023年2月28日

六字名号供養碑(八木沢)

六字名号供養碑の全体像

この碑は、俗称「塩の道」の相馬城下と原ノ町の分岐に建てられた「道標」を兼ねたいわゆる「題目塔」と呼ばれる碑です。

正面には南無阿弥陀仏、右面は宝暦七年丁丑天、左面には六月十五日、敬白 信州石工笹右衛門、そして台座の基礎石には右原町、左中村と刻まれています。

高さは2.25m、幅55cm、奥行31cm、そして台座2cm、総高2.5mあります。

山間高冷地の本村はしばしば「ヤマセ」と呼ばれる冷たい夏に見舞われる飢饉の常習地でした。

この碑の建てられた二年前宝暦五年(一七五五)は後の天明・天保の飢饉に劣らぬ飢饉に襲われ多くの人々が餓死したと伝えらており、その供養のために建てられたのではないかと言われています。

そもそも南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経などの「お題目」は、それを唱えることによって極楽浄土へ往生することができると信じられており、多くの人々の目につく路傍や旅人の往来する道路の分岐点に建てることによって死者の供養してもらう目的があったことでしょう。

また「塩の道」は江戸時代のはじめ寛文年間(一六六一〜一六七三)に相馬藩によって整備された公道で正式には「相馬西海道」と呼ばれ参勤交代や江戸の相馬藩邸との往来や二宮仕法の実施にあたる相馬藩士が日光との連絡にも使われる重要な道であるほか、相馬の浜でとれた「塩」や「海産物」もこの道を通って内陸地の村々に運ばれました。

安永四年(一七七五)、原町(現在の南相馬市)の泉浜に漂着した琉球人二十六人が迎えに来た薩摩藩士と共に江戸へかえったのもこの道でした。

六字名号供養碑の周辺


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