本文
更新日:2023年2月28日
山水画相馬祥胤筆(美術工芸品・菅野義人氏蔵)
この山水画は飯舘村比曽地区にある菅野家に伝わったものである。
作者の相馬祥胤(よしたね)は天明三年(一七八三)に家督を受け継ぎ相馬中村藩第九代藩主となったが、この年から天明の大飢饉が始まった。
領内においては多数の餓死者や欠落者(土地を捨て他の地域に移り住む者)をだした。
このような状況の中、祥胤は領民救済ため奔走し、間引き(生活困窮のため、生まれたばかりの子供を殺すこと)の禁止・子供への養育費の支給・飢饉に備え米の備蓄をすすめる等の施策を次々と行った。
一方、比曽地区の菅野家は、慶長十二年(一六○七)年に青木村(現在の福島市飯野町)より移り住み、給人(各村に住んだ相馬中村藩の下級家臣)となって、この地区や山中郷(飯舘村を含む藩領の阿武隈山系の地域)の重要な役職を担ってきた。
またこの比曽地区は、現在の相馬市から二本松市に至る奥州西街道沿いに位置し、参勤交代の行列や藩の武士が江戸との往来に利用したところでもある。
これらのことが、菅野家に山水画が伝わった手がかりになるかもしれない。
書画は江戸時代、大名の教養の一つとされており、幼少期から師の手ほどきを受けた。
伝わった山水画に目を向けると、丁寧な筆使いで基本に忠実に描かれており、祥胤の実直な人柄が顕れている。
描かれた年代や伝わった理由は不明だが、藩主と菅野家、更には比曽地区との繋がりを示す貴重な資料である。