斎藤タツ子さん

震災前、夫と私で塗装業を営んでいて、その傍ら兼業で田んぼや畑の農作業しながら和牛の仔牛繁殖も手がけていました。なので毎日やることがたくさんあって。特に牛は生き物ですから365日目が離せないし何らかの手をかけてあげないといけないので、夫婦で働きっぱなし。泊まりで旅行なんかも行けずじまいで暮らしていました。そこに震災が起きたんです。

牛たちを放って避難するわけにはいかず、臨時の競りが開催されて牛の引き取り手が決まるまで3ヶ月くらいかかったあと、牛舎を片付け、家屋敷を整理してようやく自分自身が避難生活に入りました。当時は夫が病気で福島県立医大に入院していたこともあり、思い返すと私たちなりに大変な思いをしました。

避難先は梁川町です。仮設住宅に避難しようと考えていたんですが、お父さんが一時退院できることが決まり、避難先でも畑仕事がしたかったので、こうした条件を満たす物件を探して新しい生活を始めることが出来ました。とは言え、知らない土地ですし、初めてお会いする地域の方々とのお付き合いなど苦労もありました。飯舘生まれの飯舘育ちで他の地域のことを何も知らないものですから。
避難生活を始めて最初のうちは「避難を強いられて大変ですね」なんて気遣っていただける言葉をかけていただけていたのですが、避難生活が2年〜3年と経ってくると批判的な声も耳にするようになりました。複雑な気持ちでしたね。もちろん、皆さんがそうだったわけではないのですが、これも震災が生んだ分断や軋轢なのかと思いました。
大好きな畑仕事はあれど、何となく息苦しい毎日。やっぱり飯舘村はよかったなーなんて思い返すことが多くなっていました。
正直、早く飯舘村に帰りたかったです。
待ちに待った避難解除の知らせが来た時には、うれしかったのですが、残念ながら夫は飯舘村に帰る前に亡くなりました。

今は息子と二人で元の家で暮らしており、私は畑仕事に精を出す毎日です。
40数種類の品目の作付け、じゃがいもから始めて季節に合わせて暇なく畑に作付けしています。
冬は大根や白菜、どの野菜も自分で食べる分、道の駅までい館に出荷する分、娘達にあげる分を考えて作っています。
収益を求めてやっているんじゃないんです。畑仕事は私の生きがですから。好きなんです。段取りして工程を考えて、効率も考慮して。ボケ防止にピッタリじゃないですか。
長年農業をしていて、毎年気象現象との戦いなんですけど、近年は異常気象なのか、さらに悩まされることが多くなった気がします。
それと震災以降は、里山の生態系が変わってしまって獣害に悩まされています。カラス、猪、ネズミ、
特に猿は賢くて手強いですね。いろんな手段で策を越えて畑に入ってイタズラして逃げていくんですよ。毎日、猿と私の知恵比べです。こうしてお話している間も、どこかで猿が私たちを見てるんですよ!

今74歳なんですけど、年中仕事をしてないと落ち着いていられない性分なもので、自転車に乗れるうちは野菜作りを続けるつもりでいます。道の駅までい館の納品も自転車で行きますからね。
私自身はこうして帰ってきて充実した毎日を過ごせているので大満足です。