菅野利子さん

辛いことが重なり、夢中で奮闘して過ごした日々の先に

震災前、橋梁工事の会社を家族経営でやっていました。
私は会社のお手伝いと畑仕事、お米の作付けもやっていました。それとグラジオラスという花の栽培もやっていましたね。
このグラジオラスは福島県の品評会で最優秀賞をいただきまして、とてもいい思い出になっています。
震災の前年、突然、橋梁工事の親会社が倒産してしまい、それに伴って私たちの会社も整理せざるを得ない状況になりました。みんなで暮らしたこの家も手放し、息子たちはそれぞれ仕事と新しい生活のために飯舘村から離れていきました。
私達夫婦は村営住宅へ移り住み、そんな最中に震災が起こりました。

避難先は、国見町でしたが、離れても故郷の飯舘村のことが気になって仕方がなかったです。
なので夫婦で「ふるさと見守り隊」に志願して、70歳まで村の警備/巡回のお仕事をしていました。
見守り隊を卒業する頃、さてこれからどうしよう?というときに、お友達から「母ちゃんプロジェクト」のメンバーに誘っていただき、参加することになりました。
このプロジェクトはかなり本格的な取組みと活動内容で、国見町から松川町の畑に通って得意の農作業に従事しました。
約一町歩の畑は、農場長の齊藤次男さんを中心に、松川町のかあちゃんと4人で雪っ娘かぼちゃを筆頭にしていろんな野菜の作付けをしました。
取組んでいる中で、通いでの作業が余りにも負担なので、松川町へ引っ越しました。
プロジェクトのお弁当作りにも携わったし、納品・販売・野菜の出荷や厨房のヘルプもしました。
人の役に立てる、仕事があるというのはとても幸せなことだと思うんです。
このプロジェクトを通していろんな経験ができましたし、勉強になりました。
国見町の方々、松川町の方々にも本当にお世話になりましたね。
震災当時はとても大変だったけど、今思い返すと、それが悪いことばかりではなかったように思えます。
飯舘村を出てからはどこにいても飯舘が恋しかったのですが、もう戻れないかもしれない、と思っていましたので、夢中で避難先で奮闘している最中に避難解除の知らせがあり、それは夢のようでした。

私たちは飯舘村に戻りたくて、すぐに村の復興住宅に申し込みました。幸運にも入居することができ、引っ越しました。ようやく飯舘村に戻って来れて、ほっとしているのもつかの間、私も主人も家の中でじっとしているのは性分じゃないので、農作業しよう!と決めました。元々所有していた農地は荒れていましたが、除染してもらって、村の就農などの制度(いきがい農業)を活用して畑仕事を始めました。
白菜・キャベツ・じゃがいも・ねぎなど、学校給食に納める野菜を作り始めたんです。
農作物の作付けには自信がありますからね。母に幼少の頃から厳しく鍛えられ、教えられましたから。私の自慢は、農作業なら出来ないことがないことなんですよ。

復興住宅の生活が4年目を迎えた頃、去年(2022年)の6月なんですが、埼玉にいる一番下の息子が訪ねて来まして、「お父さん、お母さん、あの家(かつて家族で生活していた住居)を取り戻したから引っ越そう」って言ったんです。驚きと、嬉しさと、何といっていいやら、とても感動しました。
私たちの知らないところで息子達がそれぞれの想いと考えで、震災前の生活を取り戻すために奮闘してくれていたのかと思うと涙が止まりません。

人生いろんなことがありましたし、農作業は決して楽な仕事ではありません。避難生活も大変な思いをしました。でも、私は乗り越えられました。(幼少の頃からの母の厳しい教えがあったからこそ乗り越える知恵と勇気が育まれたのだ、とこの歳になって理解できるようになりました。)

今は、健康で畑仕事がやれていることにとても生きがいを感じています。
シルバー人材センターの仕事も人のお役に立てることが励みになっています。
それと毎週水曜日のゲートボールは本当に楽しみですね。
いろんなことがありましたが、大好きな故郷・お友達と飯舘村で充実した毎日を過ごしています。