大渡 和公さん

アスパラガスの栽培を極めたい

震災前の2010年3月、それまで勤めていた造園会社を退職しました。
当初は70歳までは勤めようと考えていたんですけれども、退職後の第二の人生を考えると体力がある若うちにスタートした方がいいかな、と思うようになりました。

アスパラガスの栽培は、勤めていたときから兼業で栽培に取組んでいたので、退職を機に専業でより専門的にアスパラガスの栽培を極めるぞ!と意気込んでいました。その矢先にあの震災です。

避難生活は南相馬で過ごしながら、時々、飯舘村にある畑の様子を見ていました。
アスパラガスの幹は伸び、新しい芽が出てくるので試験栽培というほど本格的な大きな取組みではありませんでしたが、収穫して福島県へ検体として放射能検査に出していました。
驚いたことに、アスパラガスからは放射性物質は検出されませんでした。恐らくですが、アスパラガスの根が長く深いので、影響はなく検出されない理由だったのではないかと思います。ただ、検査で検出されないからと言ってもまだ出荷できる状況ではなかったですし、データや数値の事実よりも風評という憶測や感情的な指標の方が世の中でまかり通っている状況でした。
今ではほどんどなくなってきたように感じますが、実際に3年くらい前までは我々の収穫した農産物を指して「飯舘村の農産物なんてお金をもらっても要らない!」と、道の駅にわざわざ言いにくる方々がいらっしゃいましたからね。
それでも私はアスパラガスの栽培をこの村で極めたかったし、その信念は今でも変わっていません。

自分の生きたい生き方を貫ける場所、飯舘村

避難解除になり、当然私は村に戻って本格的に営農再開するつもりだったのですが、家族が賛同してくれなくて。
妻や子供達から「飯舘村には戻らない」と言われまして、当時は「4代も続いたこの故郷をお前たちは捨てるのか!」なんて感情的になってしまったんですが、子供達家族には避難先で新しい生活基盤ができてしまっていましたし、妻もその意向に同調していたので、娘と妻が避難生活していた福島市に土地を探して家を建てました。

それでも私自身は飯舘村で本格的に営農再開することを捨てられませんでしたので、こうして飯舘村に農業拠点となる家を建てて生活し、アスパラガスの生産・出荷をしています。

福島市の家には、たまに遊びに行く、その程度です。こうして自分の生きたい生き方を貫いています。
現在は、兼業時代と比べて畑の面積は変わりませんが、アスパラの収量がおよそ4倍になりました。品質も向上しています。種苗会社、農業指導員の方々と力を合わせて取組んできた証だと思っています。

アスパラガス以外にも1.1haくらい畑があって、3年ほど前からくるみや山菜を栽培していて、スリムレッドという品種のりんごの苗木も植えました。まだまだこの地でやりたいことがたくさんあります。

飯舘村のこれからがどうなっていくのか?は、方針や政策は国と県と村が一体となって打ち出していくべきだと考えています。これは個人の意見でどうなるものではないですよね。大好きな故郷ですから、復興と発展を強く願っています。
これから挑戦していく私の農業方針は、少量多品目栽培。
道の駅までい館の売り場に来たらいろんな野菜があった方が、お客さんは楽しいじゃないですか。
73歳になって無理が続くと衰えを感じることもありますが、気持ちと感覚は若くいるつもり。これからも、飯舘村で、挑戦していきます。

★大渡さんのアスパラガスは、9月中旬頃まで、道の駅までい館でお買い求めいただきます。
 (天候により、出荷状況に変更がございます。予めご了承ください。)