やまぶきみその会 細杉 今朝代さん

震災の当時は、飯舘村に8人家族で住んでいました。私たち夫婦と息子夫婦、孫が4人。
避難生活になるときは、一番下の孫が幼稚園生だったので、一足早く福島市の公務員宿舎に避難することになりました。運よく家族全員、同じ避難所で生活できることになったので、ひとまず安心しましたね。

震災前は畜産と葉タバコの栽培をしていて、冬期間は出稼ぎで建設業に従事。お父さんが病気で体が弱いから、私がなんでもやって働き詰めの毎日でしたけど、避難生活中は畑もないし、仕事も無し。暇を持て余すかと思いましたが、孫たちと一緒に過ごせる時間がたくできて、それが幸せでした。思い出いっぱいです。
皮肉なことですが、震災があったからこんな有意義な時間を過ごせたんでしょうし、当時、地震で電気が停まってロウソクの灯を囲んで家族全員が集まったりして、家族の絆やありがたさを改めて感じさせられました。
避難生活は6年間。その間、私はずっと飯舘村に戻れる!戻る!と信じていました。
野菜を買って食べても美味しくないし、町場の集団生活故に世知辛い思いをしたりもしましたので、尚更早く飯舘村に帰りたくて仕方がありませんでした。
そんな私たちにとって避難解除の知らせは正に吉報!
お父さんに「早く飯舘村に帰って、また子供と孫達全員で集まろう!」と言ってすぐに帰村しました。
震災はとても苦しい経験だったけど、いいこともあったな、と前向きに捉えるようにしています。

「味噌づくり」の始まり

帰村してから2〜3年、タバコの試験栽培をやりましたが、その間に自分の体力やお父さんの体のことを考えてタバコ栽培は止めることにしました。やることがなくなってしまったんだけど、避難先で参加していた飯舘村の「母ちゃんの力プロジェクト」で凍み餅を小学校に差し入れたときのことを思い出して。
小学生に大好評だったのですが、特に、孫が「凍み餅が大好きなんだ!」と喜んでくれたんです。
それで、孫の大好物な凍み餅をまた作って食べさせようと思って凍み餅作りを始めました。
どうせやるなら凍み餅の原材料も自分で育ててみようかな、なんて思って「オヤマボクチ(ごんぼっぱとも呼ばれる)」の栽培も始めました。

今は、味噌作りが私の主軸なのですが、味噌は同郷の菅野榮子さんという先輩が味噌作りをしていたんだけれど、彼女の自宅の味噌蔵を解体することになって。
榮子さんから、「味噌おけを壊すのは勿体無いので、再開の目処がつくまで預かってほしい」と頼まれたんです。
味噌おけを預かってしばらくすると、今度は「味噌おけが空じゃ寂しいから、今朝代さん、味噌作りしてみない?」ってうまいことのせられちゃって。
それで味噌作りが始まりました。
「どうせやるならちゃんと販売できるようやってみるか!」と。5人の味噌仲間、みんなで楽しくやっています。

国産大豆100%、塩は長崎県対馬産「浜御塩」。麹は玄米麹を作って原材料も製法もこだわってやっていますので、けっして安くはないんですが、この価値が多くの方々に伝わるといいな、と思います。
★道の駅までい館で販売しています。

「味噌づくり」・「若い世代との交流」を楽しんで

畑もあって、栽培した葉物野菜、インゲン、などを栽培して、道の駅までい館に出荷しています。
自分が作った味噌や野菜が売れると嬉しいもんですね。
購入していただいた方々からいただく声がやりがい、喜び、楽しみとなっています。

のんびり自分のペースで生きているとついつい楽な方へ堕落してしまいがちですが、味噌と野菜を作っていると、麹菌や野菜の成長に追いかけられるので、麹や野菜の都合で使われてるみたいで面白いですね。体を動かしますし、健康的で収穫の喜びも味わえます。

私自身、避難生活中に大病を患いまして、健康の大切さを実感し、つないでもらった命を世の中のために役に立てたいという思いもあるんです。まだまだ働けるし、味噌作りの世界も自分で切り開いていかないとね。新たに麹を作る機材を入れたので、塩麹を作って見ようと考えています。 大変なこともあるけど楽しみもあるわけですから。

この村に帰村しているのは高齢者が多くて、人口も産業もまだまだこれから色んな問題を解決していかないといけないんでしょうけど、地域おこし協力隊や移住定住でこの村へきて活動している若い方々にはとても感謝しています。親心というのか、私ができることはなんでも協力してあげたいと思っています。