いいたて結い農園 長正増夫さん

飯舘村のイメージを変えたい!「飯舘牛」ブランド牛づくりに心血注いだ日々

私は定年を迎えるまで5人の村長の下で勤めさせていただいた、飯舘村の役場職員でした。
兼業農家というほどではありませんが、趣味の範囲で農作業をしていました。
中でも趣味の蕎麦打ちはどんどん夢中になって、蕎麦の栽培から製粉、蕎麦打ちと全ての行程を自分で手がけ、納得のいく蕎麦作りを模索し、定年退職後は、蕎麦屋を飯舘村で開業するセカンドライフを夢見ていました。

私が役場職員になった当時は、県内での飯舘村の知名度は皆無状態。
「冷害の村」として被害が出た時に報道される程度の認知度しかなかったと思います。そんな村のイメージをずっと変えたいと思いながら働いてきました。

中でも、飯舘牛をブランド牛に押し上げ市場に流通させるという事業は、私達が心血を注いだ仕事の一つです。この村で畜産を営む農家は、繁殖経営がほとんどでした。いわゆる仔牛まで育てて、他のエリアの肥育経営農家に販売してしまうのです。米沢牛 近江牛 仙台牛などの仔牛は元々飯舘村で生産された牛もありました。それがそれぞれの地域に出荷され、肥育を経てブランド牛として市場を賑わせている様子を見て、私は納得が行きませんでした。

飯舘村の畜産業も仔牛で売るのではなく、肥育まで完結して市場に「飯舘牛」として出荷できないか?村と生産者が一丸となってそのゴールを目指し、牛の血統研究や受精卵移植で牛の改良を進め、肉質の優れた仔牛生産や肥育牛の研究工程を約25年間続けてきました。

全国のブランド牛は、東京都芝浦にある中央卸売市場食肉市場で、専門家が枝肉を審査して、牛肉の格付けが決まる仕組みになっています。中でも松阪牛や神戸牛・前沢牛などの一流ブランド牛は競り市の日が特定されていました。
震災の3年前に同市場から、「飯舘牛も一流ブランド牛と同じ競り市の日に出荷してほしい。」という連絡がありました。
このことは中央卸売市場食肉市場において、「飯舘牛が一流ブランド牛と同等の品質が認められた」という証でした。
食肉関係者のなかで「飯舘牛の品質」が認められ、飯舘牛は注目されるようになりました。飯舘牛は全国のブランド牛と肩を並べたのです。

「いよいよこれから市場でPRして売り出すぞ!」
生産者はじめ村や農協の関係者の長年の努力が報われ、これからが本番という矢先のことでした。2011年3月11日の東日本大震災に伴って、東京電力福島第一原子力発電所の水素爆発事故が発生しました。夢が絶たれてしまいました。心血を注いだ約25年間の全てを失った気がしました。
こうした地域ブランドの損失は、数値化や金銭補償などで補うことは不可能です。飯舘村にとっては、何にも代えがたい多大な損失でした。

飯舘村の素晴らしい風景をもう一度

複雑な心境と混乱の最中、同居していた90代の両親を温泉旅館へ避難させ、私たち夫婦は猪苗代町のアパートへ身を寄せました。避難生活は長引き、その後は保原町に一戸建て2棟を借りて、両親と私たち夫婦の4人で6年間過ごしました。
絶望とやり場のない怒りが込み上げ複雑な毎日でしたが、保原町での避難生活は私にとって、一つの転機を与えてくれました。
ある日街を散策していると「仙林寺」という曹洞宗のお寺が坐禅体験の参加者を募集している告知が目に止まりました。毎日これといってやることもなく、考えだけが頭をよぎりストレスを感じていた私は、早速体験してみることにしました。坐禅や瞑想は避難生活が無かったら得ることができなかった、とても貴重な時間と体験になりました。
住職のお話に心を救われ、消化しきれなかったモヤモヤも吹っ切れ、精神が落ち着いていくのがわかりました。仙林寺の住職は、飯舘村がとても詳しく、村に何度も訪れた思い出話しを私に聞かせてくれました。
「飯舘村はなんといってもあの広い空が素晴らしい。このままあの風景をなくしてしまうのは、あまりにも悲しい。」住職はそうおっしゃいました。
私が村へ帰ると決心したのはこのお話を聞いた時です。
それと福島市と霊山町にそれぞれ孫がおりまして、保原町はちょうど中間地点、孫の面倒を見る時間がふんだんにできました。それは幸せな時間でした。避難生活は辛い思い出ばかりではありません。いろんな方々との新しい出会いがあり、貴重な体験と時間を過ごすことができました。

地域のコミュニティー活動の拠点へ

何もしないでは農地が荒れる。戻ってきた高齢者たちが震災前のように農機具を使った規模の大きい農業をすぐに再開できるわけもなく、牛を放って飼育できるほどの体力もありません。私自身もそれは痛感しており、さて、何から始めればいいものか色々考えを巡らせました。

蕎麦を作っていた経験から、比較的軽労な雑穀の栽培がいいのではないかと思い立ち、始めてみることにしました。エゴマ、アマランサス、あわ、きび、一通り栽培してみました。その中でエゴマと蕎麦に絞られて現在に至ります。

無農薬にこだわる理由は、以前からの蕎麦打ちの経験から「食べ物は安全が担保されないといけない」という考えをもっており、ただ美味しい蕎麦作りを目指すのではなく、体にいい蕎麦づくり、穀物づくりを目指す思いからです。穀物に含まれる有効成分を農薬や化学肥料で失いたくないというのが私の農業理念です。

農園を法人化したのはその理念をもとに地域で六次化農業を起こすため、
そして無農薬の農作物生産を軸に、地域のコミュニティー活動の拠点づくりをするためです。
農作業や地域の草刈りなど、人手が欲しい作業の際は地区住民に声をかけます。
そうすると、毎回20人くらい集まってくれるんですよ。避難先の様々な地域から飯舘の故郷に来てくれます。やっぱり故郷が恋しいんですよね。
みんなで集まって楽しい会話を弾ませながら自分達のペースで農作業をする。こうした活動でコミュニティー広がっていくのが理想です。

飯舘村が心の拠り所であり、いいたて結い農園の農作業が、人が集まるきっかけになればいいと考えています。
震災でバラバラになってしまった飯舘村に必要なのは、こうした人とのつながりを再構築する仕組みや機会の創出なのではないでしょうか。
日本は少子高齢化になっていますが、この村の現状は特にそうです。年寄りは子や孫に負担をかけない生き方をしなければならないし、みんなそう望んでいると思うんです。

「いいたて結い農園」が目指す農業とコミュニケーションの規模が拡大すれば、地域福祉対策にも大きく寄与する事業になり得るのではないかと考えています。
農村社会は運営次第で、少子高齢化対策が解消できる、大きな福祉対策になり得るのではないでしょうか?
農村にお年寄りが集まって好きな花や野菜を作り、自給自足で楽しく暮らす。疲弊した農村が一転、老人天国になるのではないか?
そのためには従来の制度のみではなく、高齢者がイキイキと暮らせる条件や環境を整えることが大切なのではないかと思います。
そんな思いでこれからも、「エゴマ」や「蕎麦」や「ホーリーバジル」の栽培を通して、地域の人達がイキイキと過ごせる地域を創っていきたいと思っています。

今年は、2021年6月4日~7月10日の約1ヶ月間、宇宙を旅してきたエゴマをもとにした「宇宙荏胡麻」を圃場全体で生産して販売するので、これからの展開がとっても楽しみなんですよ!

<お問い合せ>
いいたて結い農園 代表理事 長正増夫
連絡先:090-7330-2115