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畜産農家 小林稔さん・小林司さん
父(稔さん) ※写真左
家業の米農家を継いで、同時に畜産業を始めました。牛を増やして畜産をメインにやっていこうと考えて取り組み出したんですが、稲作が忙しくて、思うように事業転換が進まなかったですね。農業と畜産の兼業でした。
震災が起きて、兼ねてからお付き合いがあった宮城蔵王の畜産農家でお世話になることになって、私は牛達と一緒に蔵王へ、息子は埼玉へ避難しました。
翌年に息子が蔵王へ来て合流し、牛の仕事は息子に任せて、私は喜多方で酒米づくりに取り組みました。
1980年代、飯舘村の村おこしプロジェクトの一環として誕生した『純米大吟醸 飯舘』というお酒があって、飯舘村産の米で大和川酒造に 委託醸造していたんですが、震災で酒米作りも酒造りも途絶えてしまって。
これを復活させるために喜多方に避難したメンバーで再び酒米作りを始めたわけです。司さん
私は宮城蔵王で畜産業、父は喜多方で酒米作り、お互い行き来しながらそんな生活がすっかり定着してきていて、あの頃は飯舘村に戻れるのか見通しがたたなかったので、蔵王に家を建てて生活拠点にするつもりでいました。稔さん
震災から6年後でしたか、避難解除になったのは。息子が言うようにすぐに戻れる状況ではなかったですね。でも高齢の両親が、帰れるならやっぱり故郷へ帰りたいって言うんですよ。それで私と両親だけ飯舘村に戻ることにしました。
ここへ帰ってきて新たに牛を買い求めて蔵王とは別に牛舎を再開させました。
そんな矢先に私が病を患いまして、一度息子に牛を預け治療に専念し、退院して再び牛舎を再開した次第です。司さん
現在飯舘の牛舎には20頭くらいの牛がいて、これから村の振興公社による牛舎での運営がスタートするので、その牛舎を借りて60頭くらいまで増やせるかな。蔵王の牛舎は徐々に減らすか飯舘に移動するなどして、ゆくゆくは飯舘村の牛舎に集約したいと将来の計画を念頭に、今は私と家族も全員で飯館村へ戻ってきました。稔さん
公社の牛舎がスタートしたら頭数を増やすのが目標。我々のような家族経営で採算ベースに乗せつつ、安定した牛舎経営を見据えた規模や限界値というものを自分たちで想定しています。一環経営による仔牛の飼育と肥育牛の出荷、肥育牛はA5ランクを9割の確率で出荷できるようにすること。体重は550kg以上600kgクラスですかね。仔牛は肥育の素牛という考えなので、仔牛を出荷する利益構造はあまり考えていません。
コロナ以降の現在、牛の相場は年末年始の特需で上がったけど、これから下がってくるだろうと。
震災前と比べると今の方が相場は高いですね。でも相対的に飼料資材も高騰してますし、 素牛の値段も上がり、枝肉の値段も上がってます。
それに釣られて仔牛の値段が上がるという構造です。高い素牛を飼って肥育するのはギャンブルですしリスクが伴いますからね。
我々は自前の母牛から子牛を産み育て、肥育牛に仕上げるという手法を選択しています。司さん
私は父の仕事・家業を継承したんですけれども、高校卒業する頃に就職氷河期真っ只中でして、2年間農業短大へ行って様子を見るじゃないですけど、短大時代もあまり世の中の景気や新卒採用市場が良くなる様子もなく、卒業したら畜産関連の仕事に就こうと考えていました。卒業後、肥育農家で研修期間を3年間経て、村の振興公社へ勤め、畜産業に携わりました。畜産業は手をかければその分結果がついてきますので、やりがいを感じます。稔さん
これから飯舘村の畜産業が復活していくためには、牛も増えなきゃいけないし、従事する人も増えないと拡大や安定に向かって行かないでしょう。
現在、仕事の選択に畜産業は全く入っていない方でも、飯舘村の我々畜産農家の取組みを見たり、村が畜産業をスタートさせるサポートを全力で応援してくれる環境を見ていただいたりして、やってみようかな、と思って参入してもらえたらいいんだけどね。
こうして帰村して飯舘村で畜産業に携わる我々が頑張らないとねいけないですよね。
自分のことで精一杯だけど、村が「本腰入れてやる!」って言ってるから、やっぱり黙って見てるだけってわけにはいかないですよ。
一緒に協力して盛り上げたいと思います。★取材日に、稔さんのお孫さん(司さんの息子さん)が牛舎のお手伝いをしており、一緒に撮影させていただきました。