-
佐藤豊洋さん
震災前は主に肥育牛を約600頭、畜産業を父親と共に営んでいました。現在の頭数の倍ですね。当時は牛の繁殖農家になるなんて思ってもいませんでした。
震災が起きて、牛たちは全頭売却しました。各地の競りを奔走し、父親も私も複雑な思いでしたが、全村避難でしたから、牛の経営は断念したんです。
その後、福島市での避難生活が始まり、今後や未来についてなかなか見通しが立たない中、新潟の同業者の方からお声がけいただいて、畜産の仕事に就くことができました。なので、避難生活中もずっと牛の仕事をしていました。
飯舘に戻ろう。
避難生活が続く中で父親と何度も話し合い、一時は「飯舘村の牛舎を取り壊そうか」という議論になったこともあるんですが、父親の気持ちとしては「できることなら飯舘に戻ってまた、牛舎を再開させたい」という想いが強かったんだろうと思ってましたし、私自身も幼い頃から目にしてきた父親の働く姿、牛舎や牛たちの様子、そういった光景を目の当たりにしてきて積み重なっている想いあったから、「飯舘に戻ろう」と決心していました。
避難解除になり父親が先に飯舘村に戻り、牛の仕事を再開させ、半年遅れて自分も帰村し合流しました。再開事の牛舎は20数頭くらいだったかな。そこから毎年ずっと買い増しを続けて、現在は160頭くらいまで牛が増えました。親牛が80頭、子牛が50頭、肥育用の牛が30頭くらいですね。繁殖牛は牛を飼い始めてから収益が見込まれるようになるまで3年かかる。育成費の捻出と牛の飼い増しを続けていくためには順当に売り上げを伸ばすことが必須で、種付けの受精率を上げるとか、資材・飼料のコスト管理を徹底するなど牛の世話以外にもやらなければならないことがたくさんあって。自分が理想とする畜産経営は日々の仕事に追われながらも新しい挑戦と研究も続けていくこと。
生き物を相手にしていますので、仕事は休めない、止めれない、これは当然です。さらに買い増しして頭数を増し、牛舎の規模を拡大していかなければならない。
これは牛舎の未来を見据えた場合、必要だから。自分が目指す今後の畜産経営は、遺伝子レベルで交配を研究して、優れた子牛が生まれる「牛群」を形成するのことが目標なんです。その「牛群」こそが、「佐藤ブランド」になり得る特徴であり強みになると考えています。
「あそこの牛舎の牛を肥育すると必ずA5になるよね」「あそこの親牛は優秀だからうちでもほしいよね」みたいな市場での分かりやすい評価が得られると考えています。
畜産の経営を安定させるためにも、佐藤ブランドを確立するためにも、他の畜産農家との差別化は必要ですし、研究精度を高めて行かなければなりません。これは自分の代で成し遂げられるのか?次世代に託すのか?まだわかりませんが、この目標に向かって奔走しています。
震災前に「飯舘牛」が盛り上がっていた当時も牛飼いをやってましたし、当時の様子を覚えてます。
こういう状況になって、「飯舘牛」の復活の話も出ていますが、昔と同じ基準、同じやり方で復活でよいのか?経営的にもメリットがある方法じゃないとなかなか厳しいと思ってます。
生産者自身の名前がクレジットされた牛として出荷できるようになるのが理想ですね。当時からそれを目指してはいたんですが、震災があって規模が小さくなってしまったので、また「佐藤ブランド」構築に向けて再挑戦している途中なんですよ。帰村して6年、これからの目標として繁殖牛を減らして肥育牛の比率を上げること、牛舎の拡大がありますが、父が高齢なのでそろそろ引退だと思うし、人手は欲しいけれど、現在の市場相場を考えると、人を雇用してまで事業拡大するのは危険だと考えています。ですが、自分の息子が大学で酪農を学んでまして、卒業したら家業を継承すると言ってくれてるんですよ。素直に嬉しいですし期待しています。厳しい業界になってしまいましたけどね。
彼の成長のために卒業したらすぐに自身が担当する牛を飼わせようと考えているんです。牛飼いとしての経験を積んでほしい。
今回のインタビューもそうなんですが、飯舘村の未来や今後についてよく聞かれるのですが、やっぱり自分の生まれ育った故郷だからね。飯舘村にこうして欲しいとか、こうなって欲しいじゃなくて、「自分が飯舘村に対して何かできることはないか」を考えてますよ。
村内の学校に自分が肥育した牛の牛肉を寄付して給食を通して食育ができないかなーとか。
牛肉の生産過程や牛飼いの文化や歴史とか、給食を通して伝えられたらいいなと。
それを自分の育てた牛肉で是非やってみたいですね。