佐野タケ子さん

飯舘村の美しい田畑や里山の風景を守りたい

震災になる前は、父と息子夫婦・1歳の孫と同居し、農業を営んでいました。
ここは、村の中でも離れた集落。大きな地震でしたので、電気も水道も止まり、状況がよくわからないまま不便な数日を過ごしました。震災から3日目、米を精米に行って戻ってきたお嫁さんから、「原発が爆発して放射能被害が起こっている。」という事態を初めて聞かされました。
その後、山形へ避難したのですが、福島第一原子力発電所の水素爆発から10日経っていました。
収穫してあった牧草も使えず、飼っていた牛を手放す。とても心が痛む決断でしたし、避難先でもそのことが頭をよぎる時を過ごしました。
結局、主人は牛が心配で、避難3日目で飯舘村に戻ってしまいます。私も追いかけて1ヶ月後に飯舘村に戻りました。

どうしても断ち切れなかった故郷への想い

牛の引き取り先の確保などに3ヶ月くらいかかり、ようやく本格的な避難生活を考えられるようになりました。
妹のつてを頼りに、福島市での避難生活。父と夫婦共々、この年齢で慣れない街での新しい生活は、いろいろと苦労もあり、毎日うまれ育った飯舘村の生活が恋しく、早く戻りたいの一心でした
そんな私たちは、避難解除が決定し、すぐに帰村しました。
自分の両親が開墾して得た田畑と農業という生業。
「自身が元気なうちは、やはり、これらを守り、元の姿に戻そう!」という気持ちが強いです。帰村して農業を続ける理由は、これにつきます。
しかし、飯舘村での農業再開は、想像を超えた苦労の連続でした。
生態系が変り、獣害に悩まされる日々。除染によって剥ぎ取られた畑の土は、砂に入れ替わり、豊かな土壌は失われてしまっていました。そんな環境を目の当たりにして、「ここで野菜を栽培して、誰がたべてくれるんだろう」と呆然としたこともあります。

花の栽培に見いだした活路 飯舘の未来

後継者のあてもなく、若い世代の帰村率が低い現状もあり、決してあかるい未来を想像できるような状況ではありませんでしたが、村全体の除染が進み、農作物の試験栽培や検査を経て出荷されるようになり、「食べてくれる方々がいらっしゃるのであれば、自分も頑張って続けよう」と思うようになれました。
トマト、インゲン、なすをはじめ、いろいろな野菜を栽培しています。震災前から作付けしてきた野菜たちです。
かぼちゃも栽培していたですが、猿たちに全て食べられてしまって。もう心が折れそうで(笑) 最近は、福島県の振興普及部の勧めもあり、花の栽培、新しい「リンドウ」の品種に力を入れています。きれいに咲いた花を見ると、とても嬉しいですし、心が和みます。

村を見て回ると、まだまだ手入れされていない田畑や空き家が目につきます。
人、お金、モノ、アイディア、全て足並みが揃わないとなかなか失った飯舘村の美しい姿を取り戻すことができないと思うので、行政にはそうした牽引役を期待しています。私たちは、体が動くうちは農業を続け、美しい田畑や里山の風景を守りたいと思っています。