松林 正治さん

今から30数年前、農業短大で学び卒業後は実習助手として短大で働いていました。途中で、飯舘村の振興公社からお声がけいただき、村の畜産業に携わるようになってから震災がおきるまでの20数年の間、飯舘村の振興公社や当時の農協などで働きながら畜産業の経験を積んできました。
断片的ではありますが、ブランド牛として飯舘牛を育てていて村の気運が盛り上がっていく状況は感じていました。

当時は実家で父親が12頭くらい繁殖牛を飼っていたので、それを引き継いで、自身の経験を合わせて肥育と一緒に経営してみたいとも考えていました。飯舘村の牛農家全員がいよいよこれからだ!という時に震災があって。
状況が一転して、飯舘村では畜産をすることができないという事態になってしまい、みんな牛を競りに出したり、出荷したり。中には牛を連れて避難された方も。自分は振興公社の牛たちを競りにだし、牛舎と事業をクローズする仕事に追われていました。実家で父親が飼っていた牛たちも臨時で開催された競りに出して引き取ってもらっていました。

避難生活中はいいたて全村見守り隊の事務局職員として仕事をしていて、もう村の畜産業が復活することも自分が畜産に携わることもないだろうな、と考えていましたね。
その後、振興公社へ戻り、除染土壌の仮仮置場の管理や整備の仕事をしていると、やがて、村は避難解除になり、帰村することができる状況になりました。
その頃です、村で牛舎を整備し仔牛の繁殖からスタートして、かつての畜産業を取り戻すための足がかりとなる事業がスタートする話を聞きました。
自分はすでに畜産業を諦めていたので、「だったらその牛舎建築のために自分の土地を提供しますよ」という話をしました。そこからどんどん話が進展していき、かつての経験を買われて、この事業(現在の牛舎)の運営・管理を村から委託されることになりました。それが令和3年のことです。いざ引き受けたものの、事業経営は自分の責任で継続していかなければなりません。時期的にタイミングが悪く、ウクライナ情勢を皮切りに飼料や資材が高騰していくばかりで、繁殖の糧となる素牛の値段も高騰していました。

スタートから2年間、苦労と出費の連続です。決して順風満帆とは言えない経営の中、今年はようやく3頭の仔牛を出荷できました。
今後もこの頭数をキープして、補助や助成がある今のうちに軌道に乗せ、年間少なくとも40頭は出荷できるようにしなければならない、と考えています。

昨年、飯舘村出身の繁殖農家、肥育農家、酪農農家が参加して構成する「いいたての牛を考える会」が立ち上がりました。今、この村で畜産を営む農家は、個々に考えや経営方針があり、いますぐ全員が一丸となるには難しさがあるのが現状です。今後、問題点の共有や勉強会を開催する機会を通して、「いいたての牛」を盛り立てていく足がかりになれば、という村役場の強い思いに支えられているので、役場のサポートに期待したいところです。

これから村の畜産業を盛り立てていくには、牛の全体の頭数が増えていくことも必要で、現状、肥育牛の出荷は年に数頭だけだから、これを毎月12頭くらい肥育牛を出荷して、市場の評価を得る、といったスタートライン到達を目指すところからはじめることになると思います。それに、相場に左右されない「価値」と「ブランド力」をつくって、「飯舘村の畜産業は儲かってる」というイメージをつくって、新規参入や畜産に就農する若い人たちを増やしていきたいと思っています。
まずは、村として将来この産業に携わる人を増やすビジョンや計画をたてて取組みながら、受入れていく環境をつくることが必要だと思います。

個人的には、自分が委託されたこの事業を今後収益化し、肥育を合わせた経営を成立させ、参入希望者に事業を継承してもらえるように取組んでいくぞ!と思っています。