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平成29年年頭訓示(平成29年1月4日)

印刷用ページを表示する 掲載日:2017年1月10日

飯舘村長 菅野 典雄

 皆さん、あけましておめでとうございます。

 年末年始、ゆっくり過ごせたでしょうか。

 年が変わり、いよいよというか、ようやくというか避難指示解除の年がやってきました。想定外の長かった6年間の避難生活ですが、一応ではありますが3月31日に避難指示解除ということになります。

 この災害に遭う丁度1年前、公設民営ということで村の診療所「いいたてクリニック」の開設にこぎつけていました。5か月前の10月には「日本で最も美しい村連合」に加盟することが出来ました。そして1か月前の「新春村民の集い」で10名の「までい大使」を任命し、いよいよ10年間の村の総合振興計画「までいライフ いいたて」の後半戦である7年目に入っていこうという矢先の出来事でした。ですから、この7年目の村の事業は、大型事業が目白押しだった訳です。

 草野小学校の大規模改修事業があり、さらに6次化農業ということで年商400億円以上という農産物流通会社の加工施設の建設も、村民グラウンドに決まっていました。さらに、大谷地住宅の改築や民間会社によるアパート建設等もある年でした。ですから、平成23年度は村にとって今までになく大飛躍の年だったのです。

 そんな新年度の事業に、夢をふくらませている最中の原発事故による全村避難でした。毎日、毎日、我々職員は、無我夢中でその対応に明け暮れていました。

 3月、4月というのは、役場にとっても、学校にとっても年度変わりの忙しい時期です。農業は作付けの決定時期でもあります。よって「何でよりによって、この忙しい時期にこんな災害が起きたのか。違う時期だったらもっと違った対応が、出来たであろうに」とのうらみ節をもっていた私でした。

 しかし、村民の避難がほぼ完了し、幼小中学校も他の場所で開校させて、夏休みに入ろうとする頃になると私の「何で、この時期に」の思いは180度変わっていました。相変わらずの山ほどの対応の合間に、ふと振り返ってみるとこの災害の時期は、もっとも良い時期に起きたんだということに気付いたのでした。

 国からの避難指示が出る前に、どうも避難させられるのではないかという感が働き、川俣町の古川町長に「もし避難ということになったら、村の子どもたちに教室を空けてもらえないだろうか」と電話で頼んでいました。よって4月10日の避難指示前の春休み中に教室の準備をしてもらっていたということです。春休み中だったからこそ、出来たことではないかと思います。学期途中での教室移動となれば、川俣中学校の保護者からクレームがついていたかもしれません。

 また、飯舘村は、「畜産の村」ですから、牛の数も2600頭程飼われていた訳です。毎週位、セリ市を開いてもらい、ほとんど売却出来ました。それは、3月、4月ですから飯舘村ではまだ越冬飼料を食べさせていたので放射能検査にひっかからなかった訳です。青草を食べている時期だったらすべて廃棄処分であったはずです。

 米作りも種もみを、うるかした位で中止が出来た。これが手をかけ、金をかけた秋口当たりでは、悔しいばかりでなく、その処理などに大変な苦労があったろうにということです。

 大型建設事業は、秋口当たりだったら基礎工事が進み、保障・賠償問題が起きていたかもしれません。つまり、一つひとつよくよく考えてみると「なぜ一番悪い時期に」の思いは「1番良い時期に起こった災害だった」に変わっていたのでした。したがって、災害対応の指揮を執っている自分としては胸をなでおろしたということがありました。

 物事を落ち着いて、考え方を変えてみれば、あるいは物事をポジティブに考えれば、全く違ったものが見えてくるということです。私はこれまでも、いくらかなりとも前向きな考え方をもってやってきたつもりですが、この災害に遭ったことによって改めて身をもって思い知らされたということです。

 したがって、この全村避難の災害も考え方を変えれば「良かった」ということもあるのではないかと、その時、直観的に思いました。災害をネガティブに考えないで、むしろ逆手にとって今まで出来なかったようなことが出来るかもしれないと、その当時から考えていたことでした。

 それが、居久根の伐採であったり、昇口舗装であったりです。さらにあの大雪の対処の仕方から、思ってもみなかった家屋解体事業が、舞い込んできたりもしました。住宅確保損害事業は、帰還困難区域だけでないだろうと主張してきました。それによって、今多くの方々が新築やリフォーム等によって新しい生活も可能になっているところです。

 さて、避難指示解除は、あくまでも復興のスタートラインに立ったというだけのことです。これから先、長いロードレースが待っています。それもかなり厳しいロードレースです。じっくり、あせらず、しかし一方でスピード感をもってかつ、したたかさをもって長期戦を乗り切っていかねばなりません。

 この6年間の災害対応、職員の皆さんにはいつもの2倍近い仕事をしてもらってきました。応援職員の皆さんには、人によっては家族と離れ離れの中で、仕事に当たってもらっています。いずれも「何でこんな苦労を」との思いもあるでしょう。しかし、いつの日か必ずややってくるはずです。

 「あの災害対応で、職員としても人間としても、1回り大きくなったような気がする。成長させられた気がする」と。

 さて、避難指示解除によっていったい何人村に戻るのか。何年後に何人位の目標を立てているのか等と。マスコミをはじめ、あちこちから聞かれることが多くなるはずです。私は一切口に出したり目標を立てたりしないで成り行きに任せるという姿勢でいきたいと思っています。他の災害と違って、村民に帰村を押し付けるなどできない特殊な災害です。したがって、私たちは新たな村づくりの1つひとつの復興事業に心を込め情熱をかけていけば、必ずや段々と、10人 20人と多くの方々が戻ってきてもらえると思うからです。これからの再生の村づくりには常に前を向いて柔軟な考え方をもっていくことが必要だろうと思っています。むしろ、村民のモチベーションを上げてもらう仕掛けをどう作っていくか、一人でも多くの村民の力を発揮してもらう仕掛けをしていくかに、心を傾けていくことが大切であろうと思っています。今年中に道の駅「までい館」もスタートできますし、中学校の改築という大事業もあります。農業などをどう進めるかというのもあります。私たちの前には、おのずとモチベーションを上げていかねばならぬ事業が待ち構えているという年が平成29年という年です。どうぞ、よろしくお願いいたします。

 次に2つ目の話に移ります。世の中にはほとんど見えない中で、あるいは私たちが知らない中で、少しずつ少しずつ世の中が変わっていっていることや、歪(ゆが)んでいっていることがあるんだな・・・ということに目ざとく気づいていかないと、いけないな・・・と近頃特に思うようになりました。例えば、原子力発電は「絶対安全」というものでない事が今回の件で分かったことです。「絶対」といえる様なことはこの世には、ほとんどなく、唯一「絶対」と言えること、それは人間には必ず死が訪れるということだけと言った人がいました。

 そのような中で、近々起きていることはイスラム国などと言われるテロ組織が世界中に恐怖を与えているということ。その組織に世界中の若者が興味をもって加入しているという現実です。さらに、昨年度集中的に起きた世の中の「大きな動き」がありました。ヨーロッパではイギリスのEU離脱、アメリカでは大統領選挙の番狂わせが起こり、アジアではフィリピンの大統領の極端な政策の実行や変更など、など・・・。

 つまり、既存の常識や秩序が大きく揺らぐことが次々と起きてきていて、世の中が変わりつつあるのでは・・・と盛んに論じられた事、皆さんもご存知の通りです。

 差別とか、偏見などあってはならないというこれまでの政治の基本や、正しさというものが崩れ出している、あるいは歪(ゆが)んできているという出来事の連続です。

 こうした「大衆への反逆」的なこと、あるいは一方で「大衆迎合主義」的な考え方が世界中に広がっていっているような気がしてなりません。つまり、自国の利益誘動にのみ各国が走っていったとしたならば、これからの世界はどうなっていくのだろうと心配になってきます。これまでの世界をリードしてきたアメリカが、人種差別や女性蔑視を堂々と語りつつ、人間重視の考え方より経済優先する考え方が世界に広がっていけば、さらに、さらに心配になってきます。世界的に不寛容な社会が伝染しているような気がしてなりません。作られた多数派によって世の中が進んでいくとしたならば、今、民主主義が試されているといってよいでありましょう。つまり、支持されそうなことしか出来ないリーダーや、口当たりの良いことしか言えない政治家が50年、100年先を考えて意思決定するとは全く思えないからです。

 自分のこと、自分の自治体のこと、自国のことしか考えない地球になっていけば、次世代に大きな遺恨(いこん)を残すことになりはしないかということです。このことは、決して他国のことだけでなく、わが日本でも心配されることですし、飯舘村でも先ほどの村長選挙である意味であったことであり、少しずつ私たちの心の中に浸透しているのではないかとも思えるからです。そういう意味では言えば、政治に関わっている私たちに反省の余地もありそうです。

 誰だって口当たりの良いことを言いたいところですが、そうであってはならないのではないかと改めて考えさせられることが、多く見受けられた平成28年だったということです。 

 もう1つの世の中の大きな流れの変化について話しをしたいと思います。従来、「早いものが良い」「遅いものは悪い」という単純な図式で日本はもとより、世界中がつき進んできました。そのところにも大きな歪(ゆが)みたいなものが進んでいるのでは・・・と思えてなりません。

 何十年か前、アメリカの科学繊維会社が、伝線もしないし、破れもしない女性のストッキングを発明したそうです。いわゆるナイロンのストッキングです。世界中の女性を大喜びさせた。

 しかし、ほどなく生産はストップになった。なぜかと言うと破れないストッキングでは、買い替える必要がなくなり、会社の生産はガタ落ちになったからです。間もなくメーカーのトップから指示が出たそうです。「破れやすいものを作るように」と。

 それ以来、ずーと大量生産・大量消費そして大量破棄という巨大なシステムから、次々と吐き出されてくる膨大な種類の商品とサービスを私たちは否応なく消費させられる社会に生きてきました。

 「経済大国行きの夢の超特急」というかけ声につられて、われ先にその超特急に乗り込んできた。初めの内は、それが私たちの生活を快適にしてくれるという面があったのですが、今や、モノやサービスが溢れ返っていながら、さらに「もっと もっと」の大合唱になっている。つまり、「人間的な豊かさ」を探す旅ではなく「物質的な豊かさ」を求める旅だったということです。

 新聞の広告も、今や完全に大量生産・大量消費の車を強引に回していく道具として使われてきていることもお分かりの通りです。それでも、経済成長を続けるためには、この歯車を止める訳にはいかなくなっている。

 したがって、「物を大切にする」とか「ムダを省く」という昔からの美徳が「使い捨て」という流れに消されつつあるということでしょう。「経済大国行きをやめて、生活大国へ行く」あるいは「経済成長から成熟社会へ」ということが、これからの歪みを少しでも正していくことになるのではということに気づきました。

 気づいた方が、少しずつ「行き先」を変えていかねばならないのではということで、飯舘村は今から15年前位に、村の10年計画をつくるに当たって「スローライフ」というコンセプトでつくろうとした訳です。「スピードは善、スローは悪」の固定観念の考え方の中では、中々理解されず、「スローライフ」を「までいライフ」に置き換えて進めてきたという経過があります。「までい」とは「心を込めて」「手間ひまをおしまず」「つつましく」です。飯舘村は「までいライフ」ということでいくらかなりとも、歪みを修正しようとする動きを他の自治体に先んじて進めてきた村だったのだということを話をして2つ目の話は終わります。

 3つ目の話に入ります。この6年間、あくまでも私なりですが、この災害中、村の舵取りをさせてもらってきました。そんな中で「けっこう元気だけど、何か健康法は?」等聞かれることがよくあります。正直言って、何もありません。強いて言えば、「規則正しく不摂生をやっていることが、いつの間にか健康の秘訣になってしまっています。」と冗談を言って笑わせているところです。

 もっと正直に言えば「元気の秘訣」が1つあるのかもしれないと思うことがあります。それは「物事を前向きに考える」ということと「人のために働く」ということです。仕事納めの式でも話させていただきましたが、この放射能の災害、被害者と加害者の立場はあるものの、村の復興や村民のためにを考えれば、対等の立場をもって相手のことに対しても十分に考えてやりながら、一方で相手にこちらのこともそれ以上考えてもらうというスタンスでこの6年間やってきました。これからもこのスタンスでやっていくつもりです。それが飯舘村の流儀であり、私の考え方の基本だということです。

 もう1つ、私はこれまでも私利私欲で働いたり動いたりしたことはありませんでしたが、特にこの6年近くは、すべてこの災害の中で「いかに村民に実をとってやれるか」に全力投球してきました。つまり、私が言うのもはばかりますし、当然のことですが「人のために働く」ことがすべてのすべてでした。実は、それが「元気の元」だったのではと確信させられることがあったのです。

 その1つは、長野県の諏訪中央病院の名誉院長である鎌田実さんの話を聞いて、自分なりに「元気の元」のことについて納得したことがありました。その話というのは、相手のことを真剣に考え、相手を幸せにしたいという気持ちを強く持ち続けていくと「オキシトシン」という身体に大変良いホルモンが出てくるという話でした。

 つまり、相手を大切に想い・声をかける・手を差し伸べる・場の雰囲気をよくするよう気配りをする・人を誉める・恋人や家族を愛する・・・そうするとこのホルモンが多く出てきて病気にかかりにくくなるのだそうです。今の世の中、人によっては、それを「おせっかい」と言うかもしれないが「とても大切な行為だ」ということでした。

 もう1つの「元気の元」納得の話は、吉田松陰の本を読んだことからでした。「松下村(しょうかそん)塾」の中でたくさんの偉人を世におくり出して、時代を変える基をつくった人です。彼は来客が来ると、必ずと言ってよい程「ご飯でも食べていったら」と誘ったそうです。それは、特別な食事という訳ではなく全く質素な食事だったとか。ただ、この一緒にご飯を食べるということが初対面の人に慕われる素になったそうです。そして身近な人、優しい人、頼れる人の印象を相手に与えたのだと。

 つまりこの2つの話から「人に分け与えられる行為」あるいは「人に分けあう心」が大切な行為であり、それが「元気の元」になっているのだと思った次第です。

 ひとり切りで高価な食事をしても、何ら美味しいとは思えないはずです。何がなくとも家族で、あるいは大勢でワイワイ食べたり飲んだりした方が間違いなく、家庭も明るくなるし、職場の環境も良くなる。自分自身も「よし、やるぞ」という元気が出てくるということ、この6年間の災害対応などでより一層、経験済みのことでありましょう。1700世帯が3000世帯に変わってしまったということは家庭の姿も、変わっていくということになります。行政区に戻る方も、今までの人数より減っていった中で地域をどう維持していくか。さらには、村にとっても人口減のみでなく、人口構成の形も大きく変わっていくはずです。

 そういう中で、どうしていけばいいのか。

 そのような時に一人ひとりが「自分のことばかり考える」であったり「自分さえよければよい」的な考え方をもっていったりしたらどうなるのでしょうか。そこで考えられることは「相手のことも少し考える」であり「相手のことにも少し思いをかける」であり「相手に少し心を分け合う」ということの大切さがうかび上がってくるのではないでしょうか。

 そんなところから「までいの、村づくり」もこれまで以上に大切な村の進む方向性ですが、避難生活6年目を過ぎてしまった村にとって、これからの村の復興には「心のシェア」がより大切になってくるのではないかという考えに至った次第です。「心を分け合う」という優しさはあったかいだけでなく、人と人をつなげる接着剤にもなるはずです。もしかしたら、経済効果を引き起こすことにもなり得たり、人を呼び込む元になったりすることも十分あり得ます。次々とこの「心のシェア」による優しさを村中に広げていきたいものですし、「心のシェア」を見つける事業や見直す運動を1つでも2つでも取り入れて村の復興を進めていく平成29年にしていきたいものと思っています。

 1つ目の話として、何事も前向きに考えることが大切ではないかという話。2つ目の話として「までいライフ」は時代の流れを先取りした考え方であること、そして3つ目の話としてこれからは多分「心のシェア」が大切になってくるのではないかということの話をさせていただいて、仕事始めのあいさつとします。長い間、どうもありがとうございました。